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2006/11/30

いじめの問題を考える

子供たちの「いじめ」が今、この国全体の重大な問題となりつつあります。

安倍首相直属の教育再生会議も先日、8つの緊急提言を行いました。この中に「いじめを見て見ぬふりをする者も加害者である」という文言があります。さらに、いじめを助長・放置した教員を懲戒に処し、家庭の対応にも触れて「親としての責任を果たすべき」と注文をつけています。学校と教育委員会、政府が一丸となって問題の解決に取り組む姿勢を強く打ち出している点に、この問題の深刻さを見て取れます。

ところで、この「見て見ぬふり」は何も子供たちの「いじめ」だけに限った現象ではありません。現代社会においては事なかれの風潮は強く、多くの方が面倒には巻き込まれたくないと考えているのではないでしょうか。しかし、さまざまな社会問題を解決するためにはまず、私たち一人ひとりが当事者意識を持たなくてはなりません。

提言で懲罰の対象に挙げられた先生たちにしても、現代社会におけるその立場は非常に弱いものです。かつては先生がひと言「コラッ!」と怒鳴れば生徒たちは震え上がり、教室はしんと静まり返ったものでした。かつての先生たちが持っていた「強さ」を、今の先生たちに求めるのは酷でしょうか。

教育の現場では、子供たちに強さやたくましさを求めますが、むしろ先生たちが強くたくましくなることで、指導力を発揮できるのではないか、と私は思います。

また、国も「家庭の責任」に触れていますが、、私も親の躾にこそが問題であると考えるひとりです。そもそも、子供に良いことと悪いことを教え、善悪の判断ができるよう育てるのは親の責務と考えます。それをしないまま、すべてを学校のせいにする親も少なくありません。

もちろん、「いじめ」をする子供の存在が問題であることは言うまでもありませんが、「いじめ」を悪いこととは思わない歪んだ子供に育てた親の責任のほうが重大です。そのことをまず、親の側が自覚することが何よりも求められます。

提言を行った教育再生会議は、この「いじめ」の問題をめぐって文部科学省と激しくやり合ったそうです。しかし、両者の妥協でこの難局を乗り越えるられるはずがありません。逆に、生ぬるい対策は「いじめ」を助長することになりかないと私は考えます。

それにしても、相手を死に追い込む陰湿で執拗な「いじめ」が何故、子供たちの間で起きるのでしょうか。多くの大人たちは「とても子供たちの行為とは思えない」と首を傾げます。ですが、子供たちの社会は、私たち大人の社会の縮図であるということを忘れてはなりません。

人間を「勝ち」「負け」で区別する現代の大人の有様を見て育った子供たちが、やがて社会の一員となったとき、日本はいったいどのような国になってしまうのでしょうか。良識ある国民の多くはおそらく、日本の未来に大きな不安を抱いているはずです。その不安を現実のものとしないためには、早急に抜本的な対策を講じなくてはなりません。

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2006/11/21

大きく変わる日本の農政

昨日の決算特別委員会で、来年度から始まる新しい農業政策について質問しました。今回はその内容について少々説明したいと思います。

新しい施策ではまず、県内の農地を集落ごとに集約します。これは最低20町歩を一単位として5年後に法人化(会社組織化)を図り、農業経営に当たらせることを目標としています。

また、現在の認定農家4町歩以上も法人化される計画です。国はこれら法人を日本農業の中核と位置づけ、今後は集中して補助金などを投入し、保護育成していこうというのです。

寺田知事は今年の春から県内を駆け巡り、この集落営農を盛んに宣伝し、農家に参加を呼びかけています。しかし、この政策に対してはいろいろと意見が出ているのも事実です。

例えば、これら法人に参加しない日本中の中小農家や零細農家には、「切り捨てられる」のではないかという不安が根強くあります。実は、民主党もそれを危惧しています。

また、法人に参加する農家にしても、先祖から代々受け継いできた農地を手放すことに、少なからず抵抗を感じているようです。県の説明では、農地はあくまでも預託するのであり、所有権を法人に移すことはないとしています。つまり、法人から離脱すれば農地は農家に戻るというわけです。

農地の集約化・農家の法人化で営農規模を拡大すること以外、国際的な自由化の流れの中で日本の農業が生き残る術はないという点においては、私もこの国の考えには基本的に同意します。中小、零細を含む全ての農家に平均的に補助金をバラまく従来の農政は、逆に農業を弱体化させ、国際的な競争力をほどんど失わせてしまったとも思います。

しかし、集落単位の法人経営がうまく進むかといえば甚だ心配です。第一に、コメを中心とした営農では例え法人化しても、収益を上げていくことは難しいでしょう。

収益の向上をいかに図るか

国はコメの価格が下がった時に、3年間は米価の平均値の90パーセントを保証すると説明しています。ただし、これで充分だとはとても思えません。そこで県はコメ以外の部分(畜産、果樹や花、畑作など)を組み合わせて収益を上げるよう指導していくと説明しています。

しかし、県には過去何十年にもわたって、コメ以外の作物に転作するよう指導してきた過去があるのです。それでも、県内農家のコメ依存率は63パーセントと非常に高いのは何故でしょうか。それが決して簡単ではないことは、火を見るよりも明らかです。

私は、営農のポイントはここにあると見ています。

コメを中心とする営農の場合、5月から9月までの5ヶ月間、およそ150日あれば良い計算になります。したがって、農家は残り200日をどう生きるかです。この日数をうまく活用してコメ以外の作物に手を伸ばし、法人の収益向上に努めない限り、集団営農は早々に破綻するでしょう。

話を先ほどの農地預託に戻すと、個々の農家が農地を法人に貸して離農したとしても、働く場が他にないのでは困ります。農地集約を進める上で、こうした離農者が生活を維持するのに必要な職場を確保できるかどうかも、今後の大きな課題になるはずです。

いずれにしても、この法人化による農業経営は日本の農業、秋田の農業にとって「生きるか、死ぬか」の大きな賭けとなることは間違いありません。成功すればそれで良しですが、もし失敗したらこの国の「農」は壊滅するということです。

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2006/11/14

官製談合の仕組みとは?

福島県に続き、和歌山県でも大阪地検の捜査が知事周辺に及んでいます。いずれも「天の声」と称する知事のひと声、あるいは意を受けた代理の働きかけで公共工事の請け負い業者が決まる談合が背景にあります。これらの事件は、知事の権限の大きさを示すものと言えるでしょう。

現在の公共工事の発注の仕方を見ていると、誰がトップでも「不正を行おう」と思えばできると私は思います。これは最初から自由な入札や競争をなかなかさせず、指名競争入札と呼ばれる方法で競争する業者を役所が事前に選ぶ制度に起因します。例えば、入札させたくない業者を役所が事前にチェックし、弾くこともできるわけです。

業界で強い発言力を持つ者は役所に耳打ちして事前に特定の業者を指名から外し、後は残った業者たちが裏で話し合いで落札者を決め、思い通りの額で公共工事を落とすという構図が「談合」であります。さらに、役所が最低制限価格を設定している時でも、それを聞き出してギリギリの額で札を入れたりします。

おそらく、自由な入札・競争をさせたら落札率はかなり下がるでしょう。言い換えれば、このような方法がまかり通ってるからこそ、公共工事の落札率は常に高いのです。

■奇妙な仕掛け

簡易公募型・公募型と言う、指名制ではない、比較的自由に、かつ広い範囲で入札参加できるような仕組み作りも進んでいます。しかし、これも入札の前に参加資格と称するハードルを設けて役所が厳しくチェックします。

公共工事であるからには、いい加減な工事をされては困ります。入札への参加を希望する業者の技術力などを調べるのは当然かもしれませんが、その業者を参加させる、参加させないの判断は最終的に役所に委ねられているのです。

近年は、それぞれの業者の技術力や経営内容をよく調べ、総合点をつけています。例えば、A社が公募型で入札に参加したいと思っても、総合点で一定水準に達していないと門前払いされます。

これは、仮に実績豊富な会社であっても、総合点のハードルを意図的に引き上げられると、入札には参加できなくなるというシステムです。どんな場合であっても、役所の判断で競争のルールや土台が作られる構図に変わりはないと言えます。

■抜本的見直しを

さて、秋田県でも公共事業の参加資格をめぐる不思議なケースが県議会で取り上げられたことがあります。

これはある公共工事の入札参加資格として設定された総合点が高すぎて、県内業者が1社も入札に参加できないというものでした。県は「非常に難工事であり、県内業者は技術的に無理である」と弁明しましたが、土木事業そのものに関して素人の私などは、納得しがたい説明であったと今も思っております。

公共工事は量そのものが減少して、利益率も下がっています。しかし、それでも民間発注の仕事に比べれば恵まれています。だからこそ、監視の目を潜り抜けて権力の中枢に近づこうとする業者が絶えないのでしょうし、これに関与して「お零れ頂戴」を企む政治家も出てくるのかもしれません。

汚職の土壌となる官製談合を防ぐためには、厳しいチェックを含めて制度を根本から見直す必要があります。小手先の改善では、また同じことが繰り返されるに違いないと私は考えます。欧米人の目から見て、日本の談合の仕組みは全くアンフェアなものでしょうし、指名入札制度も奇妙な仕掛けにしか映らないはずです。

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2006/11/03

北朝鮮のしたたかな外交

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が、ようやく6ヶ国協議の再開に同意しました。軍事行動を除く国連のあらゆる制裁決議、さらには後ろ盾となってきた中国のプレッシャーに、あの金正日総書記も応じるしかなかったのでしょう。報道では北朝鮮側が協議再開に関して条件を付けなかったとしていますが、彼らは何かしらの策を講じていると見るべきです。

これは、北朝鮮のこれまでの外交手法を思い起こせば容易に推察されます。例えば93年から94年にかけて、北朝鮮はNPT(核拡散防止条約)からの脱退を宣言して核開発の動きを見せ、米国は軍事行動を検討しつつもカーター元大統領を訪朝させたことがありました。この時、北朝鮮は核開発の凍結を約束した代わりに、平和利用のための軽水炉の供与を認めさせています。

ところが北朝鮮はその後、米国を騙して密かに核開発を進め、ついには核実験を強行したのです。これは、小泉元首相が訪朝して金総書記と会談、平壌(ピョンヤン)宣言までした我が国との約束をも反故にする行為といえます。これは北朝鮮のしたたかさを示すものであるのと同時に、小泉内閣の対北朝鮮外交が失敗したことを意味しています。

一般的に、欧米人は社交的で物腰が柔らかく、レセプションなどでは抱きつかんばかりの親密な態度を見せます。しかし、一旦外交交渉のテーブルにつくと、その表情は途端に厳しくなり、あらゆる術を用いて自己の主張を通そうとするのです。逆に日本人は民族性なのか、どちらかと言えば単純な思考をする傾向があるように思います。その良し悪しは別として、外交交渉の場ではそこに付け込まれて相手方に押し切られてしまいがちです。

日本は明治維新以降、日清・日露・日中と戦争の時代が続き、ついには太平洋をはさんで米国と対決するという無謀な戦いに突入しました。この間、日本は国家として生き残る道を常に模索し、すさまじいまでの外交交渉を繰り返してきました。

日露戦争の際は、米国のルーズベルト大統領(当時)の仲介によりポーツマスで和平交渉を進めましたが、この時の日本外交団の努力は並大抵ではなかったのです。外務大臣も務めた大物の全権大使・小村寿太郎が、ロシアのウイッテ全権大使を相手に1歩も引かず、粘り強い交渉を続けて講和条約を成立させたことを忘れてはなりません。

この時の小村の活躍は、日本の外交史に燦然と輝くものです。外務官僚には是非とも、身体を張ってこの国を守ろうとした小村の姿に学び、もっともっと努力してもらわねばなりません。一方、私たち国民も対北朝鮮とそれを巡る一連の動きを漫然と眺めているのではなく、もっと注意深く見つめていかなければならないと考えます。

今、日本では一部でいわゆる「核保有論」が論じられております。しかし、日本が核を持つことでアジアの軍事的なバランスが崩れるのを恐れる大国(米・中・露)は、我が国の核保有を阻止しようとするでしょう。日本は米国の核の傘の下、さまざまな脅威から守られているということと、軍事拡張をコントロールされてきたということ―すなわち、日米安全保障条約の2面性を理解する必要があります。

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