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2007/05/31

危機的状況の県財政

先日、秋田県財政課から現在の県財政の状況を詳しく説明していただき、その厳しさに改めて驚いてしまいました。

今年度の県の一般会計予算を簡単に説明すると、年間の収入(歳入)は6936億円です。ところが、このうち借金(県債)が1635億円――実に23.6パーセントを占めています。さらに、貯金(基金)からは290億円を取り崩すこととしているのです。このように、県の財政は貯金を下ろし、借金をすることでようやく成り立っています。

県の貯金は平成4年当時、1505億円もありましたが、平成19年度末には237億円にまで減少するのです。つまり、このままだと2~3年もすれば貯金は底を尽きます。

一方、借金は年度を重ねる毎に増え続けているのが実情です。平成元年にこの借金は4369億円ほどでしたが、どんどん膨らんで今年度末には1兆2144億円という膨大な金額に達します。

借りたものは定期的に返さなくてはいけませんし、返せないまま期限を迎えたものは借り換えするしかありません。しかし、人口が減り続けている過疎県が1兆円を超える借金を抱え、どうやったら全額返せると言うのでしょうか。

県の今年の支出(歳出)を見ますと、借り換えのための費用(借換債)や借金(県債)の返済額が1846億円になっています。今年度の収入が6936億円ですから、借金(公債費)に関する支出だけで全体の26.6パーセントにもなることが分かります。

土木費の864億円(12.2パーセント)、農林水産費の615億円(8.9パーセント)、商工費の635億円(9.2パーセント)、教育費の1266億円(18.3㌫)などと比較すれば一目瞭然ですが、その比率は異様に大きいと言わざるを得ないのです。

このまま推移すれば、平成20年度には243億円の収支不足になり、預金も193億円に減ります。そして、平成21年度には258億円の収支不足が生じ、預金もついにゼロとなります。そして、平成22年度にはマイナス250億円、平成23年度にはマイナス218億円と収支不足が続くのです。

県財政の見通しの厳しさはこれら数字からご理解いただけたと思いますが、「自転車操業」や「綱渡り」などと呼ばれる危機的状況にあることをまず正しく認識しなけばなりません。

※続く

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2007/05/17

憲法改正は必要か(2)

憲法を改正するとなった場合、プライバシーや環境など、憲法成立当時は想定されていなかった新しい国民の権利を盛り込むことになるでしょう。しかし、それ以上に重要なのは「9条」を改正するか否かであります。

ご存知とは思いますが、以下に憲法9条の条文を抜き書きしてみました。

日本国憲法第9条

1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

この条文を素直に読む限り、日本は一切の戦力を持てないことは明白だと考えます。つまり、今の自衛隊は憲法に違反するということになりますし、集団的自衛権の行使も「とんでもない」行為となるわけです。しかし、自衛隊が世界有数の強力な装備を持つ軍隊であることは紛れもない事実です。

この点について、政府はこれまで「9条は自衛権そのものを否定していない」という実に苦しい解釈をして、9条と現実の間にある矛盾を穴埋めしてきました。そして、条文の中の「前項の目的を達するため」という箇所については、「国際紛争を解決するための手段としての武力は保持しないが、自衛のための軍は許される」と説明してきました。

確かに正当防衛と同様、その解釈はもっともだと思われがちです。ただ、これもまた苦しい言い訳であることは否定できません。

このような拡大解釈が進むと、9条と現実のギャップは埋まるどころかますます大きくなり、憲法が形骸化・空洞化する恐れもあります。特に非常事態ともなれば、今のままだと「超法規的」に物事をどんどん決められてしまいかねません。そうなってからでは遅いのです。

だからこそ、平和な時にこそ自衛隊という名の強力な軍隊を現実のものとしてとらえ、憲法でもってしっかり文民統制できる状態に置くべきなのです。

憲法9条を変えれば戦争に巻き込まれかねないという主張は、現実を直視したものとは思えません。憲法9条を存続することで平和が守られるのであれば、何兆円もかけて自衛隊を維持する必要などないのです。私たちはそろそろ、自衛のための軍隊の存在を憲法で明確に規定しなければなりません。

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2007/05/15

憲法改正は必要か(1)

国民主権や基本的人権の尊重など、平和主義という人類普遍の理念を基本とした素晴らしい憲法であっても、永久不変の聖典ではありません。

社会の大きな変化や、時代の移り変わりなどを踏まえ、憲法に修正を加えていくのは当然のことだと思います。逆に社会が大きく変わっているのに、憲法にまったく手を加えないでそのままにしておくと、理念と現実とギャップがますます大きくなることもあります。ですから、欧米諸国はその時々、憲法を修正しているのです。

ところで、日本国憲法そのものには、その改正に関する手続きが具体的に定められておりません。私は「もともと憲法が成立したとき、改正手続きも明確に決めておくべきだった」と考えています。そして、ようやくその不備を補う「国民投票法案」(憲法改正手続き法)が成立することとなったのです。

しかし、これだけ重要な手続き法を決めるのに、与野党の思惑の中で政治的駆け引きの道具に使われ、与党(自民・公明)が単独で決めてしまったことは非常に残念に思えます。この法案を巡っては、民主も自民の実務者と一緒に足並みを揃えて検討し、合意寸前のところまで行っていました。

それが、参院選挙を前に足並みが乱れてしまったのは何故でしょう。それは憲法を選挙の争点とすることで、与党が有利になるとの判断が安倍総理にあったからではないでしょうか。ただし、目の前の利を漁るため、憲法改正の手続きを決める重要な法律の成立を急ぎ、与党が単独採決したことは、後々まで禍根を残す恐れがあります。

※続く

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2007/05/12

憲法が果たしてきた役割

マッカーサーに押し付けられたものであったにせよ、日本国憲法が果たしてきた役割は実に大きいものであったと私は思います。

天皇主権を基本とする明治憲法に代わって国民主権という考え方を取り入れ、基本的人権の尊重や平和主義を宣言するなど、普遍の原理を基礎とする新憲法はの制定はそれから60年の間、国民全体に自由と民主主義をすっかり定着させています。

この平和で自由な雰囲気に満ちた社会の中で経済も発展し、あっと言う間に世界第2位の経済大国にのし上がったことも事実であります。これに伴って国民生活は飛躍的に向上し、「豊かな社会」を築くことができました。現在ではさらに科学技術が進歩し、社会福祉や医療、さらには芸術文化などあらゆる分野で発展を続けていることも事実と言えます。

私は戦後60年を振り返ったとき、戦争のない平和で自由な社会がいかにこの国に繁栄をもたらしたかをつくづく感じ、その原動力となった憲法の力に驚きを禁じえません。

※続く

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2007/05/11

日本国憲法制定の背景

5月3日は60回目の憲法記念日でありました。

では、この憲法がどのような背景の下で生まれたのでしょうか。今、改めて考えてみたいと思います。

昭和20年8月30日、アメリカ軍のダグラス・マッカーサー元帥が神奈川県厚木飛行場に降り立ちました。連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官に就任したマッカーサーは在任中、絶大な権力をふるって日本を統治しています。彼は、日本そのものを大きく変えたいという強い意志を持っていました。つまり、天皇主権の下で国民の末端にまで封建主義が染み渡り、国民が圧制の下で苦しんだ状況から解放し、民主主義国家を築こうとしたわけです。

そのために、マッカーサーはまず農地の解放、財閥の解体、軍隊の解散、治安維持法の廃止に取り組みます。これはいずれも封建社会を支えた制度であり、これを止めて労働者への権利の付与や婦人参政権の確立、神道の改革など新しい国にふさわしい新しい制度をどんどん取り入れました。

そして、彼が行った最も大きな改革は、日本という国家の基本法であった明治憲法を改正し、新しい民主国家に必要な民主憲法を制定することでした。

マッカーサーの回顧録によりますと、彼は最初から強制的にアメリカの憲法を押し付けることはせず、日本側が自主的に改正するのが望ましいとの立場を取ったそうです。そこで彼は、日本側の指導者に対して「改正して欲しい」と強調したと言います。一方、日本側はこの意を受けて幣原喜重郎首相が任命した松本蒸治博士を委員長とする「憲法問題調査委員会」を発足させます(昭和20年10月)。

ただし、この委員会を作った改正案は天皇主権をそのまま残してあり、旧明治憲法の文言を少しばかり変更した程度のものであったとされます。こうした日本側の改正作業に業を煮やしたマッカーサーは、アメリカ国務省の強い要求を受けたこともあり、独自に憲法草案作りを始めることになったのです。

この作業はマッカーサーが指揮するGHQ民生局のスタッフたちによって進められ、非常に短い期間でまとめ上げられました。この草案こそが今日の日本国憲法の原案そのものなのですが、これを示された日本側指導者は誰もが驚き、「日本の伝統にそぐわない」と反対しました。しかし、結局はGHQに押し切られ、受け入れざるを得なくなってしまいます。

このような制定の経過をたどった今日の日本国憲法については、中曽根康弘元首相ら日本の保守的指導者の多くが一貫して「自主憲法の制定」を強く主張してきたのです。

※続く

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2007/05/04

県議会会派構成の顛末(2)

今回、各会派が水面下で繰り広げた攻防をじっくり観察すると、知事部局の工作が自民側を刺激し、その結束を高めた可能性が高かったと言えます。結果として自民は単独で過半数を占めたのですから、知事部局の完敗は明らかであります。

そして、寺田知事を頂点とする執行部が、今回のように議会の会派構成に介入することは避けるべきであったと、私自身は思います。

地方自治法によれば、議会は行政に従属する機関ではなく、独立したものであると規定されています。それも、執行部に対する「監視機関」であるという位置付けが明確に示されているのです。その議会の会派構成に強引に口を出すことは、地方自治の精神に反する行為ですし、応じる議員も不見識であると言わざるを得ません。

私の知る限り、執行部がこのように会派構成に強く介入した例は過去にありません。長期政権となった小畑県政時代、佐々木県政時代でも、知事の意を受けた職員が議員を口説いて所属会派を決めるなどというケースはなかったのです。

県議会議員は政治家であり、それぞれが強い意見・意思を持っているはずです。権力者の工作に屈してその意見・意思を簡単に曲げてしまうようでは、有権者の負託に応えられるはずなどありません。

いずれにしても、今回の議会会派構成を巡る攻防は、自民の単独過半数確保という結果に終わってしまいました。今後、寺田知事の県政運営は非常に厳しくなるであろう――ということだけは、衆目の一致するところでしょう。

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2007/05/03

県議会会派構成の顛末(1)

ご存知の方も多いと思いますが、開票結果を待つ選挙事務所の雰囲気は独特です。

緊張に包まれた支持者の方々がテレビの画面を食い入るように見つめ、当選確実と報じられるや否や騒然とし、互いの肩を叩き合って喜ぶその姿。関係者は顔をくしゃくしゃにし、握手をしたり、涙を流したり、人間としての感情をむき出しにします。この熱気は、おそらくその場に居合わせた人だけが味わえるものでしょう。

ただ、この興奮から一夜明けてしまえば、候補者と選挙事務所は挨拶やさまざまな手続きなどに終われ、今後のスケジュールのことで頭がいっぱいとなります。つまり、いつまでも当選者の気分に浸ってはいられないわけです。

特に、今回は与野党の勢力図が塗り変わるかどうかの選挙であり、直後から各会派の間の引き合いがスタートしています。

例えば、唯一「寺田県政与党」を自認している会派「みらい21」は3名が落選してしまい、その穴埋めのためにいち早く樽川隆さん(大仙市)と寺田知事直系の近藤健一郎さん(北秋田市)を会派に引き込み、さらに民主が推薦した鈴木孝雄さん(無所属/秋田市)をも含めて総勢10名としました。

(※鈴木さんについては、推薦するに当たって民主会派入りを約束していただき、ご本人からも「民主党に入党して党の活動に当たりたい」という強い希望がありました。その意思を踏まえての推薦決定でありましたが、鈴木さんの今回の心境の変化は、残念ながら民主党に対する背信的行為と言わざるを得ません。)

また、今回は大仙市の原幸子さん、由利本荘市の加藤鉱一さん、秋田市の工藤嘉範さんという3人の新人の動向も注目されておりました。原さんは知事の意を受けた県幹部の説得を振り切って自民会派に入りました。さらに加藤さんはもちろん、工藤さんまでが自民会派を選択するという結果になっています。

そして、今回もっとも関心を集めたのが「新生会」の存続問題であったと思われます。同会派の中心的人物であった前職・工藤嘉左衛門さん(工藤嘉範さんのお父上)はもちろん、寺田知事にもその命脈を保てればという思いは強かったと想像されますが、それは叶いませんでした。

寺田知事にしてみれば、男鹿市の加藤義康さんと鹿角の川口一さんに踏みとどまっていただき、新たに工藤嘉範さんや原さんの加入を得て、新生会を「執行部に理解のある」会派のひとつにしようという思惑があったようです。しかし、初当選の原さんと工藤さんのみならず、新生会所属だった川口さんまでが自民会派に入ってしまったことで、その願いは脆くも崩れてしまったわけです。

※続く

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