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2008/08/24

私のささやかな楽しみ

国会議員であれ県議会議員であれ、政治家は毎日を忙しく過ごしているという点で共通しています(それぞれの仕事の中身は別として、ですが)。

議会の開会中は会議の連続ですし、閉会中もあれやこれやでスケジュールはびっしり詰まっています。もちろん、夜もゆっくりできません。お酒を伴う会合に出ることが意外と多いので、帰宅したらそのまま倒れるように寝てしまいます。

そこで、私は朝の時間を大切にするよう心がけています。

私は季節にかかわらず午前5時頃には起床し、午前9時頃までの4時間がプライベートタイムです。目覚めた後に少しばかり散歩して体を動かし、それからクラシック音楽を聴きながらいくつかの新聞にじっくり目を通します。読書の時間も少しばかり作ってありますが、これは勉強というよりは頭の体操くらいのものです。

そして、最近は庭に植えられた花をゆっくり眺めるのも楽しみになっています。ベゴニアにサルビア、インパなどなど、赤やビンク、白色の鮮やかな花が咲き乱れる様子を目にすると、やはり心が和みます。花はそれぞれに与えられた時間の中で、生命を精一杯輝かせているのです。

こうした花々の横の狭い空間を利用して、キュウリ、ナス、トマト、ピーマン、シソ、インゲン、スイカなども育てていますが、毎日ぐんぐん大きくなっていく姿は驚きですし、その新鮮な自然の恵みは朝の食卓を美しく彩ってくれます。

このように書くと「贅沢だ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、庭といっても何百万、何十万もかけた立派なものではありません。高価な植木があるわけでもなく、1本50円ほどの花の苗、知り合いからタダで譲り受けた野菜の苗を植えてあるだけです。つまり、お金をかけなくてもやり方次第で楽しめるのです。

ただ、いつも残念に思うのは、これらの美しい花を眺めていられるのも10月いっぱいまでということです。霜が降り、冷たい風が吹くと一夜にして彼らは枯れてしまいます。花の命は植えてからおよそ半年ほどとはいえ、私たちの心をこれほど豊かにしてくれる素晴らしい存在だと思います。だからこそ、私は彼らに水や肥料を与えて大切に育てているのです。

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2008/08/14

8月15日への思い(2)

当時の日本は軍が中心となって密かに開戦の準備を進めていましたが、外交レベルでは戦争回避のため粘り強い交渉が行われていました。

昭和16年3月頃から野村吉三郎大使とワシントンで話し合いを続けてきたコーデル・ハル国務長官は、日本では「ハルノート」で知られ、最後通告を突き付けた冷酷な人物と受け止められていますが、今日ハルの回顧録を読むと実に誠実で、人間味のあふれる人物との印象を受けます。また、日本への最後通告にしても、戦争回避のためにアメリカ側が最後の望みを懸けた10ヵ条の平和的解決策だったとしています。

我々はこれまで日本側の視点で書かれたハル氏の人物像しか知らなかったのですが、アメリカ側の当事者であったハル自身が遺した回顧録を読み、初めて異なる事実を知ったことは私にとって本当に感慨深いことでありました。

その回顧録によりますと、ハル氏は野村氏とは40~50回もの会談を重ねたと証言しています。ところが、この交渉では「中国大陸からの日本軍撤退」など、日本側がとても呑めない厳しい要求があり、最後に決裂してしまいました。この間、日本側は近衛首相がルーズベルト大統領との直接会談を望み、戦争回避の大胆な切り札を使おうとしていたとされますが、これは米国務省や中国・蒋介石政権などの反対で実現しませんでした。

近衛氏が退き、東條内閣に代わってからも、日本側が期待していた南部仏印からの撤退などを含む「乙案」も妥協しかけましたが、最終的には潰れています。こうした表舞台とは別に、裏舞台でもさまざまな動きがありました。

例えば、ルーズベルト大統領に近いウォーカー郵政長官と関係のあるカトリックのウォルシュ神父やドロー教父です。彼らは親日派のグルー大使らを巻き込み、日本経済界の井川忠雄氏のルートを通じて日本政府周辺に接触しましたが、これも失敗に終わっています。

もしも近衛・ルーズベルト会談が実現していたら、日米開戦は避けられたのではないか――と一部専門家は分析しているようです。私もこの首脳会談が実現し、日本側が条件付ながら中国大陸や仏印からの撤退をある程度認めていたら、戦争を回避できた可能性は高かったと思います。

振り返ってみれば、日本が日中戦争、日米戦争へと突き進んでいく中で、軍部の横暴や独走は目に余るものでした。軍部は天皇陛下の大権である「統帥権の独立」を振りかざして戦線を拡大させ、これを政府がまったく抑えることができなかったのは悲劇としか言い様がありません。

今日、日本の官僚制を政府がコントロールできずにいるのを見るにつけ、こうした過去から大いに学ぶべきではないか――と考える次第です。ほんの一握りの指導者の判断で、国家の運命が決定付けられるということを私たちは決して忘れてはなりませんし、それは今の日本にも通じることを改めて認識する必要があるのではないでしょうか。

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2008/08/12

8月15日への思い(1)

今年6月15日に開催された第59回・全国植樹祭で、本県出身の作家・西木正明さんにお会いした時のことです。その際、戦争の前に首相を務めた近衛文麿氏の長男である文隆氏の生涯を描いたノンフィクションノベル「夢顔さんによろしく」や、本県出身でスペイン公使を務めた須磨弥吉郎氏による戦前の諜報活動などにスポットを当てた現代史ミステリー「梟の朝」など、西木さんの作品を興味深く読ませていただいていることをお伝えしました。

すると、西木さんは大変お喜びになって「8月頃に新刊が出ますよ。内容は戦前の日米交渉の舞台裏なんです」と、こっそり教えてくださったのです。西木さんらしく、非常に奥の深い旬のテーマを取り上げるものだと私は驚き、当時の国際情勢について少しばかりお話しさせていただいたことを改めて思い出します。

昭和20年8月15日、日本は連合国のポツダム宣言を受け入れ、戦争が終わりました。それから63年が経ち、アメリカと戦争をしていたことさえ知らない若者も増えているそうです。しかし、私たちの世代は8月15日が近づくにつれ、「どうして日本は国家の命運を懸けて大国・アメリカと戦わなければならなかったのか。戦争は回避できなかったのか」とつい考えてしまいます。

当時の「日米交渉」は正に、日本とアメリカが戦争に突入するかどうかの、ギリギリのやり取りが交わされた場面でありました。

日米の戦いは昭和16年12月8日、アメリカに対する日本の先制攻撃で始まりました。ハワイオアフ島の真珠湾に終結していたアメリカの太平洋艦隊を壊滅させるため、日本が奇襲をかけたのです。日本はギリギリ直前に宣戦布告することになっていたのですが、日本大使館側が暗号の解読に手間取るなどし、攻撃がその前に行われてしまいました。

この奇襲攻撃は成功を収め、日本はアメリカ太平洋艦隊の戦艦8隻を撃沈、もしくは航行不能にします。あまりの被害にアメリカ国民は驚きましたが、ルーズベルト大統領は「リメンバー・パール・ハーバー」(真珠湾を忘れるな)を合言葉に掲げて世論を喚起。国民の怒りを日本に向けさせ、戦争へと駆り立てたのです。

≪続く≫

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2008/08/02

福田改造内閣と政局

要所要所にベテランを配し、派閥のバランスも考えた手堅い布陣なのかもしれません。しかし、この改造内閣で日本が直面している難局を乗り切れるのかと問われれば、私は「NO」と答えざるを得ないと思います。ひとつふたつの課題ならともかく、国民の生活を直撃するような難問があまりにも多すぎます。年金問題に始まって、高齢者の医療制度、際限のない原油高とガソリン価格の高騰、それに連動した食料品の値上がり。そして、景気も後退しています。

特に苦しいのは地方です。商工業や農業は不振を極め、大型倒産も相次いでいます。日本全体を覆う格差によって社会から取り残され、夢や希望を失ったニートやフリーターも少なくありません。日本は何もかも行き詰っています。こうした現状を変えられない政治ではどうしようもありません。結局のところ、ここまできてしまえば政権を交代しない限り、明るい展望は開けないと思うのです。つまり、今の福田政権は崖っぷちに立たされているといっても過言ではありません。

迫り来る衆議院議員選挙に向け、公明党は焦っているようにも見えます。自民党といっしょに沈没したくない。そういう思いがあるのは当然のことです。もし、次の総選挙で公明党、その支持母体である創価学会が手を抜けば、自民党は壊滅的な敗北をする可能性もあります。いずれ、日本を揺るがす大決戦が近づいております。福田政権がどんな手を打つのか。国民の皆さんは固唾を呑んでこの政局を見守っていると思います。

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